言葉の野原〈4〉


 2023年4月17日

透明容器と味噌袋   

 スーパーでペットボトルの水を買ってバッグに入れ駅に急ぐ。次の電車を逃すと1時の開始に間に合わない。階段をかけのぼる。下ったところで電車の頭がホームに入ってきた。間に合った。昼の電車はすいていたので、買ったばかりの水を飲んで一息つく。ラベルに350mlとある。まあ、このくらいの分量で一日、と思うとき、いつもの事だが、脳裏をよぎる思い出がある。

娘が小学校で単位の変換を習ったときのことだ。1L1000ml1000ccという、あれである。わたしは算数が得意ではなかったが、単位の変換問題で躓いた覚えがない。覚えればよいのだ、簡単なことじゃないか、と思ったまま、気が付けば母親になっていた。ふつうのことだと思う。ところが娘は、1000ml1000ccではないという。何度教えても納得がいかない、違うというのである。

わたしはハタと困って、以前いっしょの職場にいた年長の友だちに電話で相談した。

 「そんなの、放っておけばそのうち分かるよ。大人になっても分からない人はあんまりい

 ないし」

 と、受話器の向こうの友だちは素っ気ない。

育児の終わった人はのんびり言えるけれど、わたしはまだ育児中だからそうはいかないと熱くなった。頭の中で、単位が理解できないために被るデメリットを数え上げ、それは次第に妄想へと膨らんでいき、友だちなのに他人事扱いではないか、この子の母親はわたしなのだ、どうしてもここで教えておかなくてはならないと意を固めた。子どもの迷惑顧みずというのは、育児が終わった今だから言えることである。

玩具売り場で1Lの透明容器を買ってきて、お風呂でこれが1L1000mlつまり1000ccである、と教えた。味噌の袋詰め1kgを買ってきて、テレビを見ている娘を呼んで、これは1kgだけれど、つまり1000gである、k1000を意味するのである、だから1L1000ml1000ccなのである、というように日々執拗に教え続けた。

しかし、寅さんではないが、奮闘努力の甲斐もなく、娘はいっこうにアア、ソッカァ!とは言わなかった。断じて納得いかないというのであった。わたしは娘の強情に負けてはならじと、納得してもしなくても世の中のきまりなんだからテストではそう書きなさいと、今でいうなら虐待行為ともみられるような大声で命令した。

不思議なことに、そこまでしたのに、その後、いつ娘が単位の変換を習得したのか、わたしはまったく憶えていない。脳裏に浮かぶのは、風呂場の透明容器やキッチンのワゴンの上の袋詰め味噌ばかりである。けれども、育児中のこのような甲斐のない努力を、ときおり苦笑しながら思い出すのは、決して苦さのせいばかりではない。透明容器や袋詰め味噌を思い出すと、子どももわたしも、未熟な自己を精一杯生きていた熱い気持ちが、ほんのり懐かしく体の中に蘇ってくる。友だちは、それ、言ったとおりになったでしょう、と言うだろう。

初秋のことだった。すでに二人の子の親となった娘と散歩の途中、ペットボトルの水を飲みながら、公園のベンチで昔話をした。

「憶えてるかな。あなた、単位の変換ができなかったわねぇ」

「うん、憶えてるよ」

娘は穏やかな表情だった。

「何度教えても違うって言い続けたよね。何が分からなかったのかなぁ」

 とわたし。空に目をやりしばし黙って考えていた娘は、

 「そうねぇ。例えばね。ここにAさんとお母さんがいるとするでしょ。Aさんもお母さんも

 女だよね。1000ml1000ccと同じだって言われると、Aさんとお母さんは両方とも女だ

 から同じだよって言われているような気がしたんだ。Aさんはお母さんじゃないもの」

 と娘は説明した。

 「ああ、そうだったの。ふーん」

30年以上の時間を隔てて、自分でも忘れてしまっていた心の奥底の疼きが、何の拍子か、気泡のように浮き上がり、太陽の粗い光線にふれてプチッと弾けたようだった。ようやく答を得て、晴れ晴れとペットボトルの350mlを飲み干した。(埼玉文芸家集団「会報」No.40〈2023年3月31日発行〉より転載)

このブログの人気の投稿

Keikoの短歌日乗〈7〉

Keikoの短歌日乗〈5〉

言葉の野原〈2〉