Keikoの短歌日乗〈7〉
2023年4月12日(水)
「歌の円寂する時」
同人誌「はるにれ」№32が届く。甲地玄英「短歌の能力拡大へ 迢空の試み」を読んだ。『春のことぶれ』(釈迢空)の収録作品の期間(大正14年から昭和4年)に執筆された歌論「歌の円寂する時」(大正15年)と「歌の円寂する時 続編(昭和2年)の考察である。大正から昭和にかけての、新しい歌の形への試みを検討している。この文章理解のためにもう一度「歌の円寂する時」を読んだ。
釈迢空の「歌の円寂する時」は、歌壇での真の批評の不在と、歌人の人間が出来ていないことを嘆いた論としてわたしは記憶していた。読み返して、何と表層の読みにおわっていたかと思う。たとえば、甲地が教えている、「短歌の弱点を迢空は二つ指摘する」である。一つは、短歌が叙事詩になれないこと。二つ目は理論を含むことが出来ないこと。読んでみると確かに書いてある。
甲地はいう。「短歌の長所に惚れ込みぞっこんであった歌人は短歌史上にはいくらでもいたが、欠点をくまなく知り抜いた上での愛着の持ち主はいなかったのではないか」。むべなるかな。愛は、長所はもちろんのこと、短所をも十分に知りながら、長短あわせもつ存在へ注がれてこそ愛といえるだろう。短所を知ったからといって遠ざかって行くものは、それまでのことで縁がなかったのである。そういう場合は別の、愛を注ぐに値する対象を見つければよい。迢空は歌を愛していたのだなぁと、しばししみじみ感じ入った。
釈迢空、石原純が試みた破調や行分けは、歌が歌として生き延びるための可能性を探るものだった。「歌の円寂する時」は
「純ならびに私の作について感じ得たことは、口語律が、真の生きた命のままに用いられ
る喜びである。其から更に、近代生活をも、論理をも、叙事味の勝った気分に乗せて出す
ことが出来ることなのである。三十一字形の短歌は、おおよそは
と結ばれる。口語律、散文化は、現在も表情を変えながらしばしば繰り返される話題である。短歌は今も、ゆっくり、円寂という一方向へ動き続けているのかもしれない。(2023.04.12)