Keikoの短歌日乗〈1〉
2023年3月6日
昨日は新宿で加藤治郎歌集『海辺のローラーコースター』の批評会に行った。コロナ感染が始まってから会場での批評会は控えられていたから、対面批評会はほんとうに久しぶり。室内を行き交う参加者のざわめきが新鮮に感じられ、偶然すわった隣席の人と初対面ながら話ができたのも嬉しい。
パネリストは、石川美南、奥田亡羊、寺井龍哉、堀田季何、佐藤理江(司会)で、配られた4人分の発表資料を見るだけで期待感が湧いた。発表を聞いていると、4人それぞれの短歌への対し方や観点が浮き上がり、各の読み込みの深さや論点もよく見えてきた。フリートークではパネラー間での程よい交差が歌集に多方面から光をあて、『海辺のローラーコースター』1冊の特色が浮かび上がったと思う。現代短歌の1面もあざやかに見えた批評会だった。
この批評会に行ってみようと思ったのは、読みながら室内楽を聴いているような気分になったからだ。他の歌集とちょっと違う膚触りがあった。意味よりも、事柄よりも音。これは短歌史上で大きな論議を呼び続けてきた論点である。「角川短歌年鑑」(令和5年)の座談会「「調べ」の現在」(加藤治郎・林和清・小原奈実・今井恵子)でも、「調べ」と「韻律」の用語に触れたが、何だかすっきりしないままだったので、加藤治郎さんの音楽性がどういうものか、それを読者はどのように読んでいるのか知りたかったのである。
寺井龍哉さんがロマンティシズム/ナルティシズムと超絶技巧レトリックの危うさを指摘していた。何となくもやもやしていたものに明解な言葉をあたえられたと思った。昨日の批評会では「韻律」「音律」といい、「調べ」の語は1度も出てこなかった。ここは大切。
討議に値する歌集は読者を熱くする。脳内が活性化した気分になり、「短歌、いいね」と思いながら帰宅した。(2023.03.06)