Keikoの短歌日乗〈6〉
2023年4月2日(日)
再読三読の味
勉強会で、今日は斎藤茂吉の写生説について議論した。出席8人。「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」は、これまで何度も読んでは考えたが、読み返すたびに発見がある。再読三読は自然観察と同じで、気づきと興奮に満ちている。
一般的な歌会では一首だけをとりだして鑑賞批評を交わし出来不出来を指摘するが、それだけでは、作品のごく表面をなぞった浅い受け止めで終わってしまう。評者の物差しの範囲内での印象批評に陥りやすい。作品と出会ったときの初発の感想は大事にしたいが、異論を知ると、はじめの印象を軸にして、さらに多視点からの鑑賞批評ができる。鑑賞批評が更新されてゆく。
同じように、歌論も、その一節だけ(たとえば「自然・自己一元の生を写す」)を眺めていても写生の大切さを確認するだけだ。他の歌人たちの写生論、茂吉の立ち位置、育った風土、同時代の潮流、他からの反論、他への影響、今日との比較など、多視点のなかにおいた検討が大切だ。通時的把握にくわえた共時的把握である。なかなか言葉には出来ないが、さまざまに織り込まれている短歌史の時間に、写生説を通して触れる。ほんとうに眠っていた短歌の時間に触れているのだとしたらとても素敵だ。
メンバーは茂吉研究家や茂吉ファンではないが、それぞれ資料を持ちよって「自然」「観入」「写生」の内容を検討しあった。茂吉が正岡子規「竹之里歌」のどういうところに何を見たのか、どのように「写生」を深めたのか、自由な発言が楽しかった。正解を出すのではなく、自己の物差しをそれぞれ補強したり広げたりして、少し認識を深めて帰ってゆく。今日はそういう場だったと思う。
短歌界に茂吉ファンはたくさんいる。文献も多い。研究も詳細をきわめているようだが、わたしはマニアックな関心には圧倒されるばかりである。そうではなく先達の素晴らしい歌論を梃子に、作品の読みに厚みを加えてゆきたいと思っている。(2023.04.02)